魔法を覚えたことで、一番良かったことはなんだろう。一番最初に思い浮かぶのは、たくさんの人との新しい出会いがあって、たくさん大切な人ができたこと。次に思い浮かぶのは、小さな自分の力でも、助けることができた人がいること。
 高町なのははレイジングハートに起動コードを打ち込む。彼女の生態情報をスキャンし、承認音声と共に、専用のデバイスであるレイジングハート・エクセリオンが起動する。何度かのヴァージョンアップを繰り返しながら、十年以上彼女とともにあった彼女の半身。魔力で精製された白いバリアジャケットが彼女を覆う。
 足下にアクセルフィンを展開。ふわりと体が浮き上がる。なのははこの瞬間が好きだった。重力から解き放たれる瞬間は、まるで自分がいろんなしがらみから解き放たれて、あらゆるものから自由になったように錯覚する。
 地面が遠くなる。空が近くなる。なのはは天を仰ぐ。真っ青な空。
「それでは、本日の締めは、模擬戦です」
 視線を前に向ける。航空武装隊の四人一組が四ユニット。仮想的は自分。フィールドは半径三キロ。なのはは彼女の相棒をゆっくりと前に向けながら、魔力を解き放つ。彼女の周囲に、桜色の魔力光を放つスフィアが形成される。その数三十二。
「こちらの威力設定は魔力ダメージのみ。けれど、ちょっとフィールドバリアに手を加えてあります。せっかく練習でやった多重弾核攻撃、使いこなしてくださいね」
 遠慮いりませんから。なのはが言うと、参加している面々から返事が返ってくる。これまでの何度かの教導で、多重弾核攻撃自体は使えるはずだ。だが、それを実戦の中で使えるようにならなければいけない。
「それでは」
 なのはの意志に反応して、周囲の空中にばらまいたアクセルシューターが踊り始める。
「教導隊〇五、高町なのは、いきますっ」
 景色が急速に後ろに流れていく。光の翼を羽ばたかせ、高町なのはは空を駆ける。



「たっだいまぁ」
 そう言って、機動六課本部隊舎、管理課の、あまり使っていない自分に与えられた席に座る。訓練なり出張なりでここにいないことが多いので、まだあまり自分の席という意識がなかった。荷物を置いてふにゃー、と机に突っ伏すと、部隊長の八神はやてがいつもの笑顔で言う。
「なのはちゃん、おつかれやなー」
「やっぱねー。武装局員のみんなの相手は疲れるよー」
「なのはちゃんでも大変なん?」
「うん」なのはは机に突っ伏したまま、顔だけをはやての方に向ける。「訓練だからねー。一発で墜としちゃうと訓練にならないしねー」
 ああ、とはやては笑顔を苦笑に変えた。「そっちの気疲れなんやね」
 情報担当のルキノ・リリエ二等陸士がなのはの元にお茶を運んできてくれる。お礼を言ってそれを受け取ると、一口。精神的な疲れに暖かいお茶はとても有効だ。時計を見ると、午後の三時。ライトニングやスターズの部下達は、今頃ヴィータ副隊長の下で訓練をしているのだろう。
「なのはちゃんおつかれやし」はやては書類の上で動かしている手を止めて、言う。「休みも満足にあげられてないし、今日はもう上がってもええよ?」
 今日はわたし最後までここにおるしね。そう言ってはやては笑う。うーん、と非常に魅力的な提案に、なのはの心は揺れる。このまま隊舎の自分の部屋に戻って、ゆっくりお風呂にでも入ってのんびりできたら結構幸せかもしれない。それでも部下の訓練に少しでも顔を出しておくべきだろうか。悩むなのはの顔を見ていたはやてがくすくすと笑う。
「はやてちゃん?」
「なのはちゃん顔に出とるよ、いろいろと」
「いろいろ?」
「うん、いろいろや」
「そうかなぁ」
 そう言ってぺたぺたと顔を触る。
「休みたいけど、でも訓練に顔ださなあかんかなぁ、みたいに顔に書いてあるよ?」
「ばればれ?」
「ばればれやなぁ」
 はやては書類を書き終わると、判子を押して、彼女の机の上に設置してある『済』ボックスの中にその書類を放り込む。
「リイン」
 はやてが名前を呼ぶと、それまで彼女の隣でデータウインドウを触っていた小さな人型デバイス、リインフォースがふわりと浮き上がる。
「はいです、はやてちゃん」
「なのはちゃん体あいてるみたいやから、前から言うとった魔法技術講義してもらったらどう?」
「え、いいんですか?」
 と、リインはなのはを見る。見られたなのはは「ふぇ?」と首を傾げる。
「私は別に良いけど……」
「ほんならなのはちゃん、お願いな。リイン、いろいろ教えてもらうんやで?」
 はいですー、とリインが答える。いいのかなぁ、となのはは少し眉を寄せた。そんな彼女ににっこりと――そう思っているのは本人だけかもしれないが――笑いかける。
「うんうん、二人でお風呂にでもつかりながらゆっくりと、な」



 結局流されてしまった、と少しだけ自分の甘さに落ち込みながら、なのははいつもより七割増しの時間で入浴を終え、自室に戻ってくる。時間的にはまだ夕飯前。お腹が空いているかと言われれば、とても微妙な時間帯。なのははとりあえずベッドに横になった。こんな時間に自室にいることなど、六課が立ち上がってからは無かったので、なんだか暇を持て余しているような気分になる。
「……焦ってるのかなぁ」
 ぽつりと呟いた言葉に、返答はない。自分の中からも聞こえない。
「フェイトちゃん、まだ帰ってこないな……」
 そろそろと睡魔が自分の背後から近寄ってくるのをなのはは感じた。それを特に邪魔するでもなく、そのまま睡魔に体を任せる。そう思うこと自体、疲れている証拠なのかもしれないと胡乱な頭で思う。やりたいことはたくさんある。やるべきこともたくさんある。
 部隊のこと。
 後輩達のこと。
 自分のこと。
 それらがコーヒーに落としたミルクのようにぐるぐると渦を巻きながら解け合って、なのはの意識は沈んでいく。



 目を覚ますと、すでに日は落ちて、部屋の中は暗闇に染め上げられていた。変な時間に寝てしまったせいだろうか、頭に疼くような痛みを感じる。なのはは目を擦りながらのろのろと上体を起こした。カーテンが開けられたままの窓から差し込んできているのは、月明かり。その薄い明かりの中から浮き上がるように、窓の傍に人影があった。その人影はゆっくりとなのはの方に振り向く。長い金糸のような髪が薄い光を弾きながら、揺れる。
「なのは。起こしちゃったかな」
「寝ちゃっててごめんね、フェイトちゃん」
 彼女――フェイト・テスタロッサ・ハラオウンは小さく微笑むと、起こしてごめんね、ともう一度言った。
「疲れてたんだね、なのは」
「そうなのかな?」
「そうだよ、きっと」
 そう言われると、そうなのかもしれないと素直に思う。なのははベッドから出ると、部屋の明かりをつけた。フェイトがカーテンを閉める。
 冷たい水で顔を洗うと、少し意識がクリアになる。
「フェイトちゃんは、ご飯食べたの?」
 自分で入れたのだろう、紅茶のカップを手にしているフェイトに尋ねる。
「うん。帰ってくる前に食べて来ちゃった」
 申し訳なさそうな顔で、フェイトは言う。気にしないで、となのはは言った。時計を見る。軽く食べるなら、ぎりぎり何とかなりそうだ。なのははクローゼットからジャケットを出して、羽織る。
「なのは」
「うん。軽く、何か食べてくるよ」
「うん」
 フェイトに声をかけて、部屋を出る。そのつもりでドアに手をかけたとき、ふと気になったことがあってなのはは振り返った。フェイトはすでになのはから視線を外しており、普段の彼女には似つかわしくない、どこかぼんやりした表情で窓を眺めている。外の風景を見ているのか、それとも窓に反射した自分を見ているのか、なのはには分からなかった。
 さっき、私が起きるまで、真っ暗な部屋の中で何を考えてたの?
 喉から飛び出そうとせり上がってきた言葉を、飲み込む。言葉は飲み込むことができたけれど、フェイトから視線を外すことは失敗していた。彼女はなのはの視線に気付いたのか、ゆっくりとこちらを向いて、どこか儚さを感じる顔で小さく微笑う。
「なのは」フェイトが名前を呼んだ。「私は、指導者としても、保護者としてもダメかもしれない」
 本当に悲しいときや辛いときは、小さく微笑んでしまうフェイト癖を、なのはは思い出す。
 どうして、とは聞かなかった。続きを促すことはしなかった。なのははただ静かに、フェイトが言葉を紡ぐのを待っていた。
「今日、昔事件で関わった子と本局で会ったの。いつのまにか立派な武装局員になってて、こんど次元航行艦のクルーになるって」
 うん、となのはは相槌を打つ。
「こんなに小さかったのに」とフェイトは椅子に座っている自分の頭くらいの高さに手をかざす。「今はもう私より大きくて、しっかりしてた」
 うん、となのはは相槌を打つ。
「いつか……エリオもこんな風になるのかなって、思った」
 なのはは静かに目を閉じた。フェイトに自分がかける言葉なんてなかった。彼女の想いはある程度理解できても、それを綺麗に昇華させるための言葉なんて、なのはは持っていなかった。そんな魔法みたいな言葉があるなら教えてほしい、とさえ思った。
 どのくらいの時間が経ったかなのはには分からなかった。けれど、フェイトから次の言葉は発せられることはなく、彼女はただ視線をなのはから外して、窓の外に向けた。
「……それでなんか、落ち着かない気持ちになっちゃって。なんでだろうね。変なこと言ってごめんね、なのは」
 なのはは彼女には見えない位置で頭を小さく横に振り、「気にしないで」と言った。そして、今度こそドアに手をかけて、部屋を出る。
 一人の時間も必要なのだ。となのはは思う。きっと、お互いに。
 部屋を出ると、なのはの足は食堂とは別の方向に向かっていた。廊下の突き当たりを曲がり、階段を登り、さらにその奥にある扉を開く。
 風が、なのはの髪を揺らした。
 隊舎の屋上は、特に飾り気もない箱庭のような風景が広がっている。本部の方のようにヘリポートがついているわけでもない。洗濯物を干す物干し竿があるのが、私室のあるブロックを表しているとも言える。
 なのははその屋上へ、ゆっくりと足を進める。入り口から少し離れたところで足を止めて、目を閉じる。循環を意識する。心臓から血液が自分の全身に巡っているように、リンカーコアで生み出された魔力が自分の全身を循環するイメージ。
 流れる風が色を変え、
 自分に触れては離れていく風の感触を捉え、
 風の中に小さな声を聞き、
 夜の匂いを風が運び、
 湿した唇が乾いていき、
 そして、世界の認識が切り替わる。
 なのはの体は、重力から離れて浮き上がる。風の音が鮮明になり、夜の匂いがより強く感じられる。少しずつ、先ほどまで立っていた場所が遠くなり、遠くなるほどに何かから解き放たれていくような錯覚を感じる。先ほどまで立っていた地面にはまだ高町なのはがいて、その上に空を飛んでいる高町なのはがいる。
 バリアジャケットなしの飛行は、自殺行為だと言われる。事実なのはもそう思っているし、飛行を教えるときはその言葉をまず伝える。けれど今のなのははそれをしていた。
 飛ぶ、というよりは浮かぶ、の方が正しいかもしれない。なのはの体はゆっくりと高度を上げていく。流れる風の色が変わり、地上では優しい風に、少しの荒っぽさが加わる。同じ風の別の顔。誰もが持っている別の顔。
 なのはは体を倒し、水に浮かぶように、空に浮かぶ。胸元でレイジングハートが淡い光を放っている。
 魔法を覚えたことで、一番良かったことはなんだろうと考える。一番最初に思い浮かぶのは、たくさんの人との新しい出会いがあって、たくさん大切な人ができたこと。次に思い浮かぶのは、小さな自分の力でも、助けることができた人がいること。
 そして、その助けることができた人の影には、助けることができなかった人がいるということを、想う。
 少しずつ重くなっていく自分の体を、悪いことだとは思わない。少しずつ増えていく心の棘を、嫌なものだとは思わない。
 私は泣くだろう、となのはは思う。
 静かな夜に、ゆっくりと何かが解れていく。目の前にある夜の空。後ろにある、光が灯る地上。どちらに落ちて、どちらに昇っていくのか曖昧になっていく。
 空が好きだ、と思った。
 静かな夜の空も、赤く染まる焼けた空も、どこまでも突き抜けていけるような青い空も。
 私は空が好きだ、となのはは思った。
 魔法と出会ってから、自分の中にこんな気持ちがあったのだと知った。
「――飛ぼうか?」
 その言葉で、レイジングハートは自らを起動させる。魔法使いの杖としての姿がこの世界に現れ、魔力で編まれたバリアジャケットがなのはの体を覆う。
 目を開く。
 アクセルフィンが瞬き、その加速に反発するように風がなのはを押さえ込もうとする。けれど、その風を弾き、いなし、時には味方に付けて、なのはは空を駆ける。

『なのはには、空が一番よく似合ってる』

 いつだったか、誰かに言われた言葉だった。実は、私もそう思ってるんだ。胸の中でリフレインされた言葉に答えるように、なのはは思う。
 今はまだ、夢の途中。
 そして、ずっとどこかで憧れていた、夢の中。夢にはまだまだ先がある。どう転がっていくか分からないけど、楽しくて、面白そうな続きがある。この夢はきっと覚めない。迷いや焦りさえ、その先に繋がっていくものだと思える。
「……あれ」
 遠い眼下。小さな魔力光が瞬いた。レイジングハートを通して視界を引き延ばす。狙撃用のスコープのようになった視界に、人がいた。
 スバル・ナカジマ。
 ティアナ・ランスター。
 スバルは地面にマーカーを置いて、複雑な地上機動の練習。ティアナはその動きに合わせるように設置したターゲットに射撃を打ち込んでいく。また無茶を、と一瞬思ったけれど、明日はあの子たちの休日だっけ、と思い出す。それに、しばらく様子を見てもさほど無茶をしている様子は見えない。
 視界の倍率を解除して、なのはは小さく笑う。
 あの日から、彼女たちは少し変わった。階段を飛ばして駆け上がるのではなく、一段一段をしっかり踏みしめながら、より速く駆け上がろうと必死になっている。安定感も増し、それが自信を生み、さらに成長の起爆剤になる。そんな循環が、彼女たちの中で生まれつつあるのをなのはは感じていた。
「……そんなに急がなくても、いいんだよ」
 教える側としては相応しくない言葉かもしれないと思う。それでも、そう思ってしまう自分がいることを否定できなかった。
 いつか。
 いつか、あの子たちが自分の手を離れて、空に羽ばたく日が来たとしても、それはこの上もなく喜ばしいことだ。見守る立場ではなくて、肩を並べて空を駆ける日が、そう遠くない未来にきっと来るのだろう。
 空を見上げる。
 頭上には、幾分か欠けた月。静かに光を地上に落としている月。
 部屋の窓から同じ月を見上げているかもしれないフェイトのことを想う。フェイトの抱えているであろう想いについて、想う。
 少しの間、なのはは目を閉じて、教え子達と同じ空を駆ける夢想を楽しむことにした。
 私は泣くだろう、となのはは思う。
 その日が来たら、泣いてしまうに違いないのだ。
 
 
同じ空

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